このページはChromeで聴ける読み物の一つです。最後の電車が出たあと、駅の照明が半分だけ消えると、ホームの端に小さな扉が現れるという話があります。昼間には壁しかない場所です。扉には看板もなく、真鍮の取っ手だけが付いています。
ある夜、乗り遅れた会社員がその扉を見つけました。駅員を探しても誰もいません。仕方なく扉を開けると、中には細長い図書室がありました。棚には分厚い本が並んでいますが、背表紙には題名ではなく日付が書かれています。
一冊を開くと、その日の町の出来事が細かく記録されていました。新聞に載るような事件ではありません。朝のパン屋で最初に売れたパン、交差点で傘を貸した人、川沿いで立ち止まった犬、夕方に閉店した古い文房具店。誰も記録しないようなことばかりでした。
会社員は自分の日付を探しました。そこには、会議で話した内容よりも、帰り道に考えていたことが書かれていました。明日は少し早く帰ろうと思ったこと。久しぶりに友人へ連絡しようと考えたこと。駅へ向かう途中で見た月が思ったより明るかったこと。
ページの最後には一行だけ空白がありました。会社員は机に置かれた鉛筆で、終電を逃した、と書こうとしました。しかし少し考えて、知らない図書室を見つけた、と書きました。書き終えると、棚の奥で小さなベルが鳴りました。
外へ出ると始発電車がホームへ入ってくるところでした。振り返ると扉は消えていました。翌日から会社員は終電を逃さないようになりましたが、ときどき帰宅途中に、記録されるほどでもない出来事を一つだけ覚えておくようになったそうです。